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2017年02月07日

井伊直虎ゆかりの地ー16 井伊家が守護した親王の従族

 静岡県佐久間町の国道473号線の脇に「御室家住宅・・」の看板があり、昔からの住宅のように思い立ち寄った。
 細い山道を「この上に住宅があるのだろうかと」と内心、心配しながらハンドルを左右に回しながら登ると開けた所に出る。左に段々畑がありその上に住宅が観える。
 説明版に 御室家(みむろけ)住宅の長屋門 とある

 御室家は山城国(奈良県)の出で日野中納言藤原資頼卿一族、藤原光資(みつすけ)を始祖とあり、父親は藤原光顕とあった。光資は後醍醐天皇に朝廷で仕え南朝時代、宗良親王に従い伊勢大湊から海路遠江国白羽港につき、井伊谷・井伊家の三嶽城に入城。北朝方高師泰(こうのもろやす)と戦うが形勢不利にて宇津谷峠を越え富士山麓、甲斐、浅間山麓、越後へ向かった。その後碓氷峠戦に敗れ信濃国大河原(長野県大鹿村)にて香坂氏の守護を受ける。光資は宗良親王の傍にて軍役・武器調達に従事し時には和歌のお相手をした。(親王選者、新葉和歌集の中に光資の和歌が14首ある)
 香坂氏の娘を妻とし二人の男子をもうけた。しかし正平24年(1369)光資が大河原城中で亡くなると幼児二人を母親が育て成年になると南朝のため再起をかけて味方だった井伊氏、秋葉の天野氏を頼って天竜川を下った。
 門前までの石組が凄い

 暫く井伊家に庇護を受けたが南朝振るわず長男・太門は佐久間村に住居を構え同地を開拓、上野の地名にする。
 次男・左近は龍山村下山に居を構えた。
 太門の子孫は徳川家康浜松城在城の時、家来を従え軍役を務め永壱貫文地を賜った。大坂の陣では鉄砲十二丁所持し足軽つれ軍役を務める。功により狭石(せばいし)地を賜り農業林業等をする。

 
 江戸時代は代々庄屋を務め佐久間村を納めた。現当主で20代、約640年余続いているという。
 昔の道は何処を通っていたか地元の方に伺うと「高い所にあるが今は通れない」との事。国道に「豆こぼしトンネル」名が付いている、天竜川が大きく蛇行し船が岩場に衝突、荷物の豆がこぼれてしまう、荷物が落下するほど急カーブの流れだ、ということのようです。

 井伊家の宗良親王の話、伊勢の大湊から出て遠州灘で親王船が嵐に遇い白羽に漂着した事と同じです。

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 豆こぼしトンネル


つづく


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Posted by エル at 12:00
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