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歴史 伝説 その他

2016年12月09日

井伊家ゆかりの地 堀川城主はだれ?瀬戸方久か

 浜松市北区細江町気賀の堀川城跡を訪ねる。弱体した井伊家の三人衆・近藤康用(やすもち)・鈴木重時・菅沼忠久を味方にした徳川氏は今川方支配の遠江へ軍を進めた。気賀の今川方土豪村民は掘方城に立て籠り抵抗した。刑部城落城し永禄12年徳川兵3000が堀川城を包囲し猛攻するが激しく抵抗、3月民兵1000人をなぜ切にし、なおも探索し生け捕った村人約700の首をはねたという。斬首した首を晒(さら)した堤を「獄門畷(ごくもんなわて」と地元では言伝えている。
 堀川城は誰が主になっていたか、浜松市教育委員会が建てた案内板には誰とも書いてない。

 全得寺の瀬戸方久墓の案内板に、堀川城主新田善斉(よしあき・きさい・方久)大永5年(1525)~慶長11年(1606)まで、新田義貞の末裔(まつえい)であって井伊家の家臣、気賀の領民に尽した武将(商)でもあった、落城後に訴訟に関与し、責任をとって気賀の代官・石川半三郎によって刑死となる。慶長11年(1606)8月、82歳の生涯を終える、とある。
 別の物には、城将・山村修理、徳川氏侵攻に今川方が築城し家臣と地元住民で籠城、斎藤為義らと村民が築いたとある。
 堀川城落城、3月25日近藤康用、秀用、鈴木重路、菅沼忠久、菅沼定盈らが堀江城攻めが始まったという。

左に塚がある


 南側から見る

 墓のある全得寺から写す 矢印が堀川城跡

 屋根は全得寺 高台から見ると平坦な所に築城した事が解る。
 城と言うよりも「砦」のような建物だったのではないかと想う。
 どの様な規模だったか、遺構は残っていないという。

 井伊家と係わりのあった瀬戸方久の詳しいことは解らない。
 堀川城主なら徳川氏に敵対した事になる、が慶長まで生きている。

 謎の多い瀬戸方久です。


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Posted by エル at 21:39
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