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歴史 伝説 その他

2017年01月07日

井伊直虎ゆかりの地ー1 井戸から誕生共保?

 井伊直虎ゆかりの地 井戸から生まれた?共保 
  自分の先祖様の事を調べ出し、始めは西三河に行き、次に「尹良親王→宗良親王」ゆかりの地を回って浜松市井伊谷の「井伊家」に辿り着いたのです。本来の調査から逸れてしまった感はあったがご先祖様が何か関係があっただろうと勝手に想い「井伊家ゆかりの地」として約70回程ブログに行当り次第に記載しました。今回は順序良くUPしたい。
 今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が8日から放送される事からゆかりの地は観光客が増加しているのが解ります。
 井伊家ゆかりの地と云われる所を訪ねると聞いた方がいろいろな話をなされる。地元図書館で資料を読むと微妙違い各説が書かれている。
 何しろ昔の事、「見聞きした人は今いません」どれが正しいと断定できないのが歴史なのでしょうか。古文書も後世に聞き書いたもの、家に都合の良いように書かれその真偽は解りません。

 今回の大河ドラマ作家森下さんも「ドラマ」として書いています。事実か解らない事も井伊家に伝えられている事にいろいろ付け加えて物語としています。直虎の幼名は不明ですが名前がないと物語になりませんから「おとわ」としたと直虎のドラマ時代考証をされた小和田哲男氏(文学博士・静岡大学名誉教授)が話されていました。

 井伊家の祖は共保(ともやす)とされ出生が諸説あります。
●龍潭寺(地蔵寺)近くのお手洗い井戸脇に元旦に男の子が捨てられていた。
●龍潭寺で育てられ7歳の時、藤原共資に引き取られた。
●井戸の中で生まれた。
●藤原共資(ともすけ)の子として生まれた。
●井伊谷で生まれ後に共資の養子になった。
●共資が正月宮詣りの帰り井戸脇で捨て子を拾う。
井伊共保(ともやす)出生の井戸 脇に捨てられていた


浜松市北区引佐町(いなさちょう)井伊谷
 姫街道未来塾発行「姫街道」第28号には
 共資に男子が生まれた「捨て子をして、拾いあげて育てると丈夫に育つ」という風潮があり寛弘7年(1010年)元日、井伊谷地蔵寺(龍潭寺)の近くの井戸脇へ赤子を捨て僧が身を清めに来るのをまった。僧が赤子を見つけ拾い上げ無事に寺に帰ったのを見て帰った。自分の子である証に井戸脇に藤原家の紋章である橘の木を植え帰った。やがて赤子が7歳になった時、共資は地蔵寺に出向き住職に事情を話し礼をいい村櫛へ連れ帰った、名を共保(ともやす)とした。共保は万寿1年(1024)15歳で元服し父の官を継ぎ備中守になり遠江の政治を行うが幼いころの井伊谷が忘れられず井伊谷へ戻りたいと願い共資の許しを得て井伊谷へ館を構えた。よって井伊谷地名から井伊家を名乗り初代井伊共保が誕生した。家紋は藤原氏の橘と井戸の井を用い、背旗は戦場で遠方から解りやすい「井」を使用したようです。
 家紋

名門藤原家の父共資がいたから井伊谷でも敬服したでしょう。

 藤原共資は藤原鎌足の12代孫であり遠江国へ国司として(正暦4年993年)磐田見付に住み後に村櫛(むらくし・浜松市西区村櫛町)の志津城に住したという。長元8年(1035年)75歳亡くなった。
 志津城跡碑

井伊谷城跡との位置 赤丸=志津城跡 黒丸=井伊谷城跡


また、正暦年間(990~994)天皇命により国司か巡検使として来た、井伊谷八幡宮の神主・西尾秀次が正月元旦、神社へ向かうと井戸端に赤子を見つけ拾い家で育てた。村櫛郷の藤原共資に女子しかいなかったから養子に出した。元服して自分の娘と結婚させた。また共資が正月に謂伊神社詣で帰り道で井戸端に泣いている赤子を見つけ育てる、それは寛弘7年(1010)のことだったという。 

つづく

 関連記事 井伊家ゆかりの地 2016.8.5


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Posted by エル at 20:22
Comments(0)観光歴史伝説

2017年01月07日

昨日、遊びにきた小鳥

 一羽で来たヤマガラ(山雀)さん
 
そっと見ていると 






 周囲に気配りしながら(警戒)・・・
 
 目的は水を飲んで水浴びです。