2017年01月25日
井伊直虎ゆかりの地ー10 直親殺害地は何処?
今川方に直親の父親である直満と直満の弟・直義を殺害された井伊家はさらに直親が掛川城下で今川家臣朝・掛川城主、比奈泰朝(あさひなやすとも)に殺害さてた。親子共今川家に殺害されたことになる。
掛川城下の何処で殺害されたか掛川市に行って見ると以下の事が分かった。
徳川家康との間に不穏な動きがありと今川氏に「井伊家は謀反を画策している」と疑われた。永禄5年(1562)12月14日直親は謀反の意なしと申し開きに駿府今川氏へ行く途中に殺害された。掛川市、東光寺脇に地名であり「十九首・じゅうくしょ」という塚がある。
この塚は平将門(たいらのまさかど)らの19人首塚と云われているが井伊直親主従19人の塚とも云われている。

石柱には平将門らの名が刻まれ井伊家のことは説明文にも一文字のない。将門は天慶2年(939)関東の地で朝廷に対抗して新政権樹立、関東の国府を攻め落した。藤原秀郷ら朝廷軍に鎮圧され将門らの首を京へ運ぶ途中に朝廷の使者と掛川で合うと「首は捨てよ」と言われた。敵でも名門の将、手厚くこの地に埋葬したと言う。首は京に運ばれ洛中に獄門となったとも云われています。また首が「胴が欲しい」と空中を飛ぶ話は各地にあるようです。

将門首塚、井伊直親殺害地塚、共に伝説伝承だけで記述はありません。地名としては検地帳慶長9年(1604)に「十九首」が書かれているそうです。

伝承として井伊直親終焉地とされ「井伊直虎ゆかりの地」の旗がなびいています。
首を洗った川

東光寺石墓群

首を川に懸けたことから懸川=掛川になったとも云う。
井伊家のものは全くない、伝承とNHK大河ドラマによる旗が立っていただけである。
伝承は将門の方が有名だった事から便乗したのであろうか
掛川城に井伊家から城主として4代勤めている、彼らは井伊直親終焉地をどのようにしたか?
つづく
-2℃ → 7℃ 快晴
掛川城下の何処で殺害されたか掛川市に行って見ると以下の事が分かった。
徳川家康との間に不穏な動きがありと今川氏に「井伊家は謀反を画策している」と疑われた。永禄5年(1562)12月14日直親は謀反の意なしと申し開きに駿府今川氏へ行く途中に殺害された。掛川市、東光寺脇に地名であり「十九首・じゅうくしょ」という塚がある。
この塚は平将門(たいらのまさかど)らの19人首塚と云われているが井伊直親主従19人の塚とも云われている。
石柱には平将門らの名が刻まれ井伊家のことは説明文にも一文字のない。将門は天慶2年(939)関東の地で朝廷に対抗して新政権樹立、関東の国府を攻め落した。藤原秀郷ら朝廷軍に鎮圧され将門らの首を京へ運ぶ途中に朝廷の使者と掛川で合うと「首は捨てよ」と言われた。敵でも名門の将、手厚くこの地に埋葬したと言う。首は京に運ばれ洛中に獄門となったとも云われています。また首が「胴が欲しい」と空中を飛ぶ話は各地にあるようです。
将門首塚、井伊直親殺害地塚、共に伝説伝承だけで記述はありません。地名としては検地帳慶長9年(1604)に「十九首」が書かれているそうです。
伝承として井伊直親終焉地とされ「井伊直虎ゆかりの地」の旗がなびいています。
首を洗った川
東光寺石墓群
首を川に懸けたことから懸川=掛川になったとも云う。
井伊家のものは全くない、伝承とNHK大河ドラマによる旗が立っていただけである。
伝承は将門の方が有名だった事から便乗したのであろうか
掛川城に井伊家から城主として4代勤めている、彼らは井伊直親終焉地をどのようにしたか?
つづく
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2017年01月25日
井伊直虎ゆかりの地ー10 直親殺害地は何処?
今川方に直親の父親である直満と直満の弟・直義を殺害された井伊家はさらに直親が掛川城下で今川家臣朝・掛川城主、朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に殺害さてた。親子共今川家に殺害されたことになる。
掛川城下の何処で殺害されたか掛川市に行って見ると以下の事が分かった。
徳川家康との間に不穏な動きがありと今川氏に「井伊家は謀反を画策している」と疑われた。永禄5年(1562)12月14日直親は謀反の意なしと申し開きに駿府今川氏へ行く途中に殺害された。掛川市、東光寺脇に地名であり「十九首・じゅうくしょ」という塚がある。
この塚は平将門(たいらのまさかど)らの19人首塚と云われているが井伊直親主従19人の塚とも云われている。

石柱には平将門らの名が刻まれ井伊家のことは説明文にも一文字のない。将門は天慶2年(939)関東の地で朝廷に対抗して新政権樹立、関東の国府を攻め落した。藤原秀郷ら朝廷軍に鎮圧され将門らの首を京へ運ぶ途中に朝廷の使者と掛川で合うと「首は捨てよ」と言われた。敵でも名門の将、手厚くこの地に埋葬したと言う。首は京に運ばれ洛中に獄門となったとも云われています。また首が「胴が欲しい」と空中を飛ぶ話は各地にあるようです。

将門首塚、井伊直親殺害地塚、共に伝説伝承だけで記述はありません。地名としては検地帳慶長9年(1604)に「十九首」が書かれているそうです。

伝承として井伊直親終焉地とされ「井伊直虎ゆかりの地」の旗がなびいています。
首を洗った川

東光寺石墓群

首を川に懸けたことから懸川=掛川になったとも云う。
井伊家のものは全くない、伝承とNHK大河ドラマによる旗が立っていただけである。
伝承は将門の方が有名だった事から便乗したのであろうか
掛川城に井伊家から城主として4代勤めている、彼らは井伊直親終焉地をどのようにしたか?
つづく
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掛川城下の何処で殺害されたか掛川市に行って見ると以下の事が分かった。
徳川家康との間に不穏な動きがありと今川氏に「井伊家は謀反を画策している」と疑われた。永禄5年(1562)12月14日直親は謀反の意なしと申し開きに駿府今川氏へ行く途中に殺害された。掛川市、東光寺脇に地名であり「十九首・じゅうくしょ」という塚がある。
この塚は平将門(たいらのまさかど)らの19人首塚と云われているが井伊直親主従19人の塚とも云われている。
石柱には平将門らの名が刻まれ井伊家のことは説明文にも一文字のない。将門は天慶2年(939)関東の地で朝廷に対抗して新政権樹立、関東の国府を攻め落した。藤原秀郷ら朝廷軍に鎮圧され将門らの首を京へ運ぶ途中に朝廷の使者と掛川で合うと「首は捨てよ」と言われた。敵でも名門の将、手厚くこの地に埋葬したと言う。首は京に運ばれ洛中に獄門となったとも云われています。また首が「胴が欲しい」と空中を飛ぶ話は各地にあるようです。
将門首塚、井伊直親殺害地塚、共に伝説伝承だけで記述はありません。地名としては検地帳慶長9年(1604)に「十九首」が書かれているそうです。
伝承として井伊直親終焉地とされ「井伊直虎ゆかりの地」の旗がなびいています。
首を洗った川
東光寺石墓群
首を川に懸けたことから懸川=掛川になったとも云う。
井伊家のものは全くない、伝承とNHK大河ドラマによる旗が立っていただけである。
伝承は将門の方が有名だった事から便乗したのであろうか
掛川城に井伊家から城主として4代勤めている、彼らは井伊直親終焉地をどのようにしたか?
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