2017年01月11日
井伊直虎ゆかりの地ー4 亀之丞に刺客
亀之丞の父親・直満が父の弟・直義と共に今川家に殺害され井伊家の姫・おとわと許婚(いいなずけ)である亀之丞(9歳)も命を狙われる。天文13年12月29日(1544年)井伊谷から家臣・今村籐七郎と約3里(12km)北の渋川郷・能仲(のうちゅう)和尚の東光院へ隠れる。
今の東光院

ここも危険になり能仲和尚の計らいで信州・松源寺に行くことにする。 翌年正月3日、亀之丞、能仲和尚、今村籐七朗は信州へ坂田峠へ向かう。
案内板から 伊藤信次作画

かますに身を隠し逃げる亀之丞
坂田峠は何処か?地元の詳しい方に伺うが地名として残っていない、県道298号線(渋川鳳来線)沿いに鳳来寺秋葉神社詣古道があることからその辺の峠か東光院の下を流れる川宇連川上流であろうという。
峠への大平(おいだいら)で弓矢を射かけられたが事なきをえて信州へ向かった。その矢は亀之丞の草鞋(わらじ)の緒を射たとも云われている。
弓矢の狙撃を受ける亀之丞一行

10年後の弘治元年(1555年)亀之丞は無事、井伊谷に帰郷するが一旦東光寺に約1ヶ月身を寄せ井伊谷に入ったという。
亀之丞を狙ったのはだれか?
井伊家は年の瀬の雪が舞う日にシカ狩りを計り近郊の男衆を集め「弓の名手は誰か」と尋ねると「右近次郎(おこのじろう)だ」という。右近次郎は大平に住み地元では弓名人として狙った獲物は必ず射ると評判の人物だった。右近次郎を案内人とし赤い頭巾を着させ先頭にしてシカ追いは始まり谷間の奥に入った。時を見計らい四方から井伊家の家臣が取り囲み弓に矢を付け法螺貝(ほらがい)の鳴るを合図に矢は放され右近次郎はその場に倒れたよいう。
右近と書いて「おこの」というが「うこん」から変化したと想われる。
大平地区は渋川・東光院の北にあり愛知県境に近く、同地区で話を伺うと「右近次郎の屋敷と墓がある」明治時代に住人は変わった、また、討ち取られた場所には石碑建っているという。
右近屋敷に今住まわれている方に話を伺うと「詳しい事は解らないが右近次郎の墓と聞いている、祠の中を覗くと祟りがあると伝えられて墓に手を付けられない」という。
右近次郎の墓

右近次郎の屋敷

赤丸に墓があった
大平で庄屋もされていた方に「撃取り場所」を伺うと「大変な所、道がないも同然、行けるかどうか」という。「以前探しに行った方は解らない、と帰ってきた」という。
道路から登る場所だけ伺い午後3時を過ぎていたが石柱場所を目当に沢を登る事にする。小さな沢に架かる橋の脇を登るがブルトーザーで削った凸凹道から樹林に被われ薄暗くなった道かどうか判らない所を沢を2ヶ所渡り左右に石碑がないか気配りしながら約5.6百㍍上っただろうか、



前方が開け平坦な所に出た。

さらに50㍍程進むと大岩があり脇に石碑が建っていた。

「右近次郎ここに果つ」とある
裏に 渋川歴文会建之 と刻まれている
沢の上を見るとガードレールが見える事から県道から下りた方が近い事が分かる。
右 近次郎の妻は亀之丞を弓で射た事を聞き機織りの布を切り裂き右近次郎の元を離れ細木に戻り尼になったという。
あくる日ガードレールが見えた県道から石碑がある場所を探すと

樹木の間に石碑が見えた
殺害場所

大体赤印辺りと想う
右近次郎は今川方の国境警護役であったか、獲物を獲って近所に配っていたやさしい青年、的を外す事はないという。9歳の亀之丞を哀れに想って業と外し射たのではないかと地元の人は話ていた。
右近次郎は悪者ではない、今川家の家臣、命令に従っただけだ。
悪人なら、その後も当地に住むことは出来ない、井伊家が右近一族を皆殺しにしていたであろう。
つづく
今の東光院
ここも危険になり能仲和尚の計らいで信州・松源寺に行くことにする。 翌年正月3日、亀之丞、能仲和尚、今村籐七朗は信州へ坂田峠へ向かう。
案内板から 伊藤信次作画
かますに身を隠し逃げる亀之丞
坂田峠は何処か?地元の詳しい方に伺うが地名として残っていない、県道298号線(渋川鳳来線)沿いに鳳来寺秋葉神社詣古道があることからその辺の峠か東光院の下を流れる川宇連川上流であろうという。
峠への大平(おいだいら)で弓矢を射かけられたが事なきをえて信州へ向かった。その矢は亀之丞の草鞋(わらじ)の緒を射たとも云われている。
弓矢の狙撃を受ける亀之丞一行
10年後の弘治元年(1555年)亀之丞は無事、井伊谷に帰郷するが一旦東光寺に約1ヶ月身を寄せ井伊谷に入ったという。
亀之丞を狙ったのはだれか?
井伊家は年の瀬の雪が舞う日にシカ狩りを計り近郊の男衆を集め「弓の名手は誰か」と尋ねると「右近次郎(おこのじろう)だ」という。右近次郎は大平に住み地元では弓名人として狙った獲物は必ず射ると評判の人物だった。右近次郎を案内人とし赤い頭巾を着させ先頭にしてシカ追いは始まり谷間の奥に入った。時を見計らい四方から井伊家の家臣が取り囲み弓に矢を付け法螺貝(ほらがい)の鳴るを合図に矢は放され右近次郎はその場に倒れたよいう。
右近と書いて「おこの」というが「うこん」から変化したと想われる。
大平地区は渋川・東光院の北にあり愛知県境に近く、同地区で話を伺うと「右近次郎の屋敷と墓がある」明治時代に住人は変わった、また、討ち取られた場所には石碑建っているという。
右近屋敷に今住まわれている方に話を伺うと「詳しい事は解らないが右近次郎の墓と聞いている、祠の中を覗くと祟りがあると伝えられて墓に手を付けられない」という。
右近次郎の墓
右近次郎の屋敷
赤丸に墓があった
大平で庄屋もされていた方に「撃取り場所」を伺うと「大変な所、道がないも同然、行けるかどうか」という。「以前探しに行った方は解らない、と帰ってきた」という。
道路から登る場所だけ伺い午後3時を過ぎていたが石柱場所を目当に沢を登る事にする。小さな沢に架かる橋の脇を登るがブルトーザーで削った凸凹道から樹林に被われ薄暗くなった道かどうか判らない所を沢を2ヶ所渡り左右に石碑がないか気配りしながら約5.6百㍍上っただろうか、
前方が開け平坦な所に出た。
さらに50㍍程進むと大岩があり脇に石碑が建っていた。
「右近次郎ここに果つ」とある
裏に 渋川歴文会建之 と刻まれている
沢の上を見るとガードレールが見える事から県道から下りた方が近い事が分かる。
右 近次郎の妻は亀之丞を弓で射た事を聞き機織りの布を切り裂き右近次郎の元を離れ細木に戻り尼になったという。
あくる日ガードレールが見えた県道から石碑がある場所を探すと
樹木の間に石碑が見えた
殺害場所
大体赤印辺りと想う
右近次郎は今川方の国境警護役であったか、獲物を獲って近所に配っていたやさしい青年、的を外す事はないという。9歳の亀之丞を哀れに想って業と外し射たのではないかと地元の人は話ていた。
右近次郎は悪者ではない、今川家の家臣、命令に従っただけだ。
悪人なら、その後も当地に住むことは出来ない、井伊家が右近一族を皆殺しにしていたであろう。
つづく